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[BookReview] 日本的組織ではなぜ上級幹部は愚劣な意思決定を繰り返してしまうのか:(再読) 池田信夫『「空気」の構造』

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▼Week12-#01:池田信夫『「空気」の構造 – 日本人はなぜ決められないのか』(白水社, 2013年)

感想:★★★★★
読了:2017/03/25(再読)

バタバタしてしまったので当初予定していた論文を置いて、3年ほど前に一度読んだことのあるやや読みやすめの本を再読。とはいっても、ここ最近の自分自身の問題意識からバイネームで書名が念頭に挙がっていて読み返したかった本でもあります。

本書は、サブタイトルにあるように「日本人はなぜ決められないのか」ということをテーマに、有名な「日本人論」を参照しながら日本的組織の特徴を論じた書籍。そういった意味では、本書中でも取り上げられる『失敗の本質』と同様、組織人として得るものが多い本です。冒頭で「これまでの日本人論は学問的な根拠のない印象論が多いので、本書では経済学や歴史学の成果を応用して、なるべく学問的に考えてみたい」(池田『「空気」の構造』p.11)と著者も述べているように、過去の目立った文献を縦横無尽に行き来する読み応えのある書籍です。

中村伊知哉氏はその書評(リンク)の冒頭、本書の帯に踊る「社員は優秀なのに経営者が無能!?」というコピーに触れるところから始めていますが、このコピーは中村氏の言うとおり営業用コピーであるとともに、本書の中盤、『失敗の本質』を引いた章にある次の一節に対応しているように思います。

1939年にノモンハンで関東軍と旧ソ連軍が戦って日本軍が惨敗したとき、ソ連軍指揮官のジューコフ将軍は、日本軍について「下士官兵は優秀、下級将校は普通、上級幹部は愚劣」と評し、これが日本軍についての評価の定番となった。(同, p.144)

本書は、日本的組織では「上級幹部(トップマネジメント)」がなぜ「愚劣」な意思決定を繰り返してしまうのかを論じたものといえます。論じられている枠組みを端折ると以下のようになります。

  1. 人類の規範の「最古層」には、「集団淘汰」のメカニズムが存在する。これは「個体群の中では利己的な個体が利他的な個体に勝つが、利他的な集団は利己的な集団に勝つ」(p.195)というものだ。人類の200万年の歴史の内、新石器時代に入る1万年前以前の大半は狩猟採集社会を生きていた時代であり、この時代の行動規範にあったはずの「プリミティブな平等主義」(p.210)は遺伝的な感情として残っていよう。
  2. 定住・農耕社会に至り、「最古層=プリミティブな平等主義」の上に「古層」が沈殿する。日本においては、地理的な特殊性から「気候や水に恵まれて豊かで対外的な戦争がなく、同質的な人々が一つの村で一生すごす安定したコミュニティが数千年にわたって維持された」(p.49)。ゲーム理論(囚人のジレンマ)からも明らかなように、こういった「特定の集団の中でインサイダーだけを信頼する『安心社会』…では長期的関係(彼〔=山岸俊男〕のいうコミットメント関係)のある相手だけを信頼する」(p.45)。結果として、同調圧力や排他的システム(=「空気」)が強化される。
  3. この同調圧力の強さはコミュニティ内部の紐帯を強化する一方、組織の目的意識の欠如という状況を生んでしまう。これには、上記のとおり大きな戦争に巻き込まれたことがなく「目的」を意識しなくてはならない事態の経験が少なかったことや、キリスト教的な時間意識(天地創造の日から最後の審判の日まで直線的に流れる物語のなかで、そのゴール=神の国における救済に向けた目的意識が働く)に相当するようなものがなかったためでもある。
  4. これらの結果、全員が長期的な関係に結びついたコミュニティは「多数決ではなく全員一致」(p.105)になりがちであり、リーダーシップは下位階層からボトムアップであがってきたものの「調整型」となる。そこでは目的よりも「組織内の人間関係が重視され、面子や前例主義がはびこり、組織が自己の存続のために『自転』する」(p.60)。

本書中では、この1~4を表層から古層、最古層へと掘り進める形で(つまり4~1の順で)探り当てていきます。ここで重要になってくるキーワードは「水利構造」・「逆エージェンシー問題」と、「下克上」です。

前者の「水利構造」と「逆エージェンシー問題」についての詳細は同書 p.49と p.108の明解な図を参照されたいところですが、農村における用水組合の上流・下流構造と、株主よりも従業員共同体の利益を守ることに傾きがちな日本企業の経営とに相似を見出します。

日本の農村の水利構造においては、下流の村が決定権を持ち、それらを調整する形で上流の意思決定がなされていくとされ、皇帝=上流が集中的に水利権を持っている中国型とは全く異なります。この構造は同様に「水利構造における上流:下流=企業経営における株主:社内経営者=企業内部における経営者:労働者」といった比例関係になり、本来は「株主=プリンシパル(依頼人)、経営者=エージェント(代理人)」であるはずのものが、「経営者=プリンシパル、株主=資本を提供するだけのエージェント」となってしまっていると著者は見ます。

日本の組織では … 現場で決定と実行が行われ、全体を統括する決定者がいない。形式的にはいるが、現場から上がってきた決定を追認するだけの「みこし」になっている。(略)天皇制に代表される日本型デモクラシーは、決定が現場に近いので小さな変化に柔軟に対応できる反面、現場を削減するような大きな意思決定ができない。(p.108)

この部分は上記の枠組みのうちの2~4に当たるのですが、もうひとつのキーワードとなる「下克上」の淵源を「最古層」たる「プリミティブな平等主義」に求めることで1と2とをつなぎます。

… 日本は大きな戦争を知らないまま近代化し、その「平和ボケ」の体質が今も残っている。民族が絶滅されるとか他民族の植民地にされる過酷な体験を知らないため、国全体を守るリーダーが生まれず、ローカルな「部落の平和」が最優先され、その利害調整の結果として国家の政策が決まる。西洋でも中国でも、自然発生的な「古層」の上に意識的な権力機構が構築されたのだが、日本では何となく強い大名が勝つという形で事実上の権力者が決まり、江戸時代まで全国の支配者がいなかった。(p.208)

前述の「地理的特殊性」は長期的関係が前提となったコミュニティを生むとともに、強いリーダーシップが不要な環境をも生んでしまったということでしょう。そのため階層構造が権力構造になることを「プリミティブな平等主義」観念が拒み、「下克上」という形をとります。

この「下克上」のメンタリティは、例えば「外国人と一緒に仕事をして感じるのは、彼らは『命令されないと動かない』のに対して、日本人は『命令されるのをいやがる』」(p.178)という形で遍在します。このあたりは、與那覇潤氏の『中国化する日本』でも語られていたように思います。

以下、考えたことや、あとで考え直すためのメモ。

  • 企業経営の実際の中で、「ボトムアップ」や「全員一致」という形式を重視する傾向はしばしば見られる。また、それは裏返すと「誰も決めないシステムでは、全員が自分で決めたような参加感をもつのでモチベーションが高まる」(p.157、強調部引用者)ということでもあり、残念なことにモチベーションと目的意識や責任意識とがトレードオフということになってしまっている。歴史的・風土的な宿命論とせずに、これを超克する方法なり仕組みを考えなくてはならない。
  • 企業における「経営/現場」間の意思決定の逆転のケースは見知っていたことでもあるが、上記の「逆エージェンシー問題」にあるように「株主/経営」間でも意思決定の逆転が起きていることについても、無意識であったが思い当たる部分も多い。
  • 本書では「日本型デモクラシー」一般のみならず、日本「企業」の組織や雇用のあり方についてもさまざまに触れている。「年功序列」(p.70-1、p.180-1)を含む労使関係に関する記述は、第5週に読んだ『MBAのための日本経営史』での解説もあわせて確認しておきたい。
  • 「日本的経営」の評価については、下記の箇所は非常にフェアだと感じた。
    • … 「日本的経営はなぜこんなにすぐれているのか」という問いは間違いで、「日本企業はなぜ自動車や家電に強いのか」と問うのが正しい。日本企業が強いのは「2.5次産業」と呼ばれる知識集約的な製造業だけだが、それがたまたま70~80年代に花形産業になり、また自動車やテレビなどの規格が標準化されていて世界市場が成立したために、「日本の奇蹟」と見えたのだ。(p.165)
  • 他の書物でもしばしばそう評されているように、本書でも東條英機は「小心で凡庸なサラリーマン」(p.153)と評される。彼のパーソナリティ然り、昇進をしていくプロセスもまさにそうなのであるが、つまるところ「東條英機的」マネージメントは、単に個人の資質や戦時報道ばかりならず日本的組織が生み出した帰結でもあり、こうした「調整型」人物がプロモーションしやすい環境がある以上は同様のマネージメントが再生産されうるということに、日本企業(組織)は意識的になる必要があろう。
    • 東條のもう一つの特徴は、手続き論への異常なこだわりだった。他人を論理で説得することが苦手な分、形式的な法律論で相手をねじ伏せようとする。皇道派を追放した陸軍では下克上への警戒が強まり、上の命令を忠実に守って反抗しない東條のような軍人が模範とされたのだ。こうして人望も能力もない東條が「消去法」で、するすると陸相になった。彼は石原〔莞爾〕とは違って調整型で敵が少なく、周りが警戒心を抱かなかったことも幸いした。(p.154)
  • この「空気」なるものを探り合う営為の結果のひとつが、ここ最近話題になっている「忖度」であろう。外国人記者クラブの会見で通訳がこの語の翻訳に難渋したのも、実に日本的な精神構造に根ざしたものであるゆえだ。前述のように「誰も決めないシステム」内での事象であるため、例の事案も真偽は実際どうであったかは別として、「忖度」がなかったということを立証することは「悪魔の証明」だ。

Written by shungoarai

3月 26th, 2017 at 1:00 am

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