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あなたのソーシャルグラフとわたしのソーシャルグラフはぴったりと重ならないということ(当然だけど)

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Facebook Status (June 12th, 2011)

最近、しばしばソーシャルメディア上での振る舞いに関するマナーについて考えるようになりました。Facebookのようなオープンなソーシャルネットワーキングサービスが次第に浸透してきて、こういうサービスに慣れていない人もこれからどんどん使うようになるフェーズに来ていると思うので、マナーのようなものが整備されるべきではないかと考えるからです。

そこで、そうしたマナーを考えるにあたって念頭に置かなくてはならないことは、私たちのバックグラウンドにあるソーシャルグラフはそれぞれ異なっているのだという当然の事実です。個人の一次的なソーシャルグラフは、構成される人々も異なるし、たとえ同じ人物がそこにあらわれようと捉えられ方はそれぞれ異なるのだということを、しっかり考えなくてはなりません。

冒頭のFacebook上への投稿も、そうしたことを考えていた際のものです。Facebookに写真を投稿したりなどする際にそこに登場する人物をFacebookアカウントと紐付けること(タグ付け)が多くなってきていますが、私にはどうもそれはものすごく一方的というか乱暴なコミュニケーションの方法のように感じます。

予定というものは、多かれ少なかれ何か別のこととのプライオリティの調整によって組まれるものであり、なおかつ円滑な人間関係を保つためには、他者(知人・友人たち)が関わる予定のプライオリティはどれもトップに位置づけられているように見えることが望ましい。そうは言っても「優先順位付け」を行うという場合、すべてを等しく最上位に置くことはできないわけですから、大事なのは自分にとってのプライオリティを他者からは見えなくすることでしょう。

しかし、(Facebookの不意なタグ付きの投稿に代表されるような)オフラインのことがらがソーシャルメディア上で共有されるとき、見せるべきでなかったプライオリティが不意に可視化されてしまう場合があります。

何かのプライオリティを上げて選ぶということは、相対的に、別の何かのプライオリティを下げて選ばないということです。そういう場合、「何を選んだのか」が知られることで不利益を被るケースもあるわけで、当事者としては細心の注意を払わなくてはなりません。しかし、自分がいかに細心の注意を払おうと、別の誰かの投稿がそれを台無しにする可能性があります。ここで意識しなくてはならないのは、投稿した人自身は、その投稿が自分には不利益をもたらさないと知っているということです。ただ、他の人々にとっても同様かどうかまでは十分考えられていないことでしょう。

ソーシャルメディアで投稿を行う場合、その投稿が自分に不利益をもたらさないのと同様に、他の関係者にも不利益をもたらさないかどうかを確認した上で投稿するということが根本的なマナーではないかと思います。それは自分自身のソーシャルグラフを尊重するのと同様に、知人・友人のソーシャルグラフをも尊重するということです。

そして、それはユーザーサイドの意識のみによって実現されるのではでなく、サービスサイドでも仕様的に解決すべきことだと考えます。


[Summary]
Open social networking services as Facebook, not closed as mixi, are gradually expanding here in Japanese market. Now that manners on social networking services should be maintained, because many without enough experience to use such services are now starting to use.
I think the most important and fundamental manner is considering whether posts which users are about to publish will bring any disadvantage to others, not only to posting users themselves. This is the way to respect others’ social graphs as well as our own. And this should be fulfilled not only by users’ consciousness but also by the functional support of service side.

Written by shungoarai

6月 27th, 2011 at 10:30 pm

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mixiの「足あと」終了が示すこと

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昨日の夕方、IT関連のニュースサイトは続々とmixiの機能リニューアルに関する記事を掲載しました。

ミクシィは6月6日、SNS「mixi」の「足あと」機能をリニューアルし、新たに「先週の訪問者」機能として6月13日から提供すると発表した。訪問者を「友人」と「その他」に分け、1週間に訪れた人を翌週に表示する。

「足あと」機能は2004年2月のmixi開始当初から、いつ誰が自分のページを訪問したかを把握でき、またページを訪れたことを友人に簡単に伝えられるフィードバック機能として提供してきた。だが最近は「mixiボイス」など足あとがつかないサービスの利用が進んでいる上、「イイネ!」を使って友人へのフィードバックも容易になっており、サービスの多様化とコミュニケーションスタイルの多様化に合わせて改善することにした。

「mixiの『足あと』機能が『先週の訪問者』に リアルタイム履歴表示は終了」, ITmedia ニュース, 2011年6月6日.

Twitter上での反応を見る限り、リアルタイム履歴表示終了を惜しむ声も散見されますが、「足あと」ページが次第に見られなくなってきたという数値的な根拠もあっての決定であろうと思います。私自身は、iPhoneアプリ版に「足あと」ページがないのを見たときに、おやっと思ったのですが、その頃からすでに「足あと」機能のプライオリティは下がっていたのかと推察します。ITmedia の記事中では、

… 最近は「mixiボイス」など足あとがつかないサービスの利用が進んでいる上、「イイネ!」を使って友人へのフィードバックも容易になっており、サービスの多様化とコミュニケーションスタイルの多様化に合わせて改善することにした。

とあるので、「2010年度第4四半期及び通期 決算説明資料」をチェックしてみると、

mixi総コミュニケーション投稿数(株式会社ミクシィ 2010年度通期決算説明会 資料)

とあるように、投稿トレンドは、「mixiのコミュニケーション機能(ボイス、日記、フォト、カレンダー、チェック、チェックイン、イイネ!)の投稿数及び各機能のフィードバック(コメント、イイネ!)数の総計」を指す『総コミュニケーション投稿数』という指標でまとめられてしまっています。では、そのうち「ボイス」がどの程度を占めているのかを見ようとすると、

各コミュニケーション機能の投稿数トレンド(同上)

といった具合に「ボイス」と「チェック」の投稿数が時系列での相対値でのみ表示されていて、絶対値としてどれだけの投稿があるのかはこれだけではわからないのですが、実際のところはかなりの割合をこれらに依存しているのではないかと考えられます。日記の投稿も、「イイネ!」ボタンを押した回数も同様に1としてカウントアップしてしまう「総コミュニケーション投稿数」なる指標はかなりダウトフルですが、そのなかで「足あと」の意味合いが薄れてくるほどに、「ボイス」などがmixi内で発信される情報の総量を牽引しているのでしょう。

このことからは、以下のようなことを示しているのかもしれません。

  1. 「マイミク」を中心としたソーシャルグラフを元にした、mixiのクローズドなコミュニケーションにおいても、やりとりされている情報のひとつひとつは希薄化しているのではないか。
  2. 一方で、このように発信される情報が希薄化し、(イイネ!ボタンなどによって)レスポンスのハードルも低くなったなかでは、「足あと」のような単に「誰がこの情報を見たのか」という情報は意味を持たなくなってきたのではないか。

注意したいのは、ここで「希薄化」と言っているのは、コミュニケーションそのものについてではなく、やりとりされるひとつひとつの情報単体について言っているという点です。情報発信とレスポンスの双方でハードルの低下はやりとりの活発化を促したため、ひとつひとつの情報は希薄化していても、それらを総体として捉えたコミュニケーションは濃くなっているのではないかと感じます。


[Summary]
Early this week, the Japanese SNS mixi announced that it would soon renew a log feature of visitors to users’ own page, so called “Footprints”. The feature has been characteristic of the most popular SNS in Japan since launched in February 2004, and its disuse shows that users’ normal action has shifted from “Write/Read diary” style to “Tweet/Like” style. It may also show that each information distributed over closed social network in mixi becomes thinner while communication gets stronger on the whole led by easiness to send thinner information.

Written by shungoarai

6月 7th, 2011 at 5:00 pm

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“Like” はインフレーションを起こさないのか

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少し前になりますが、Ogilvy の上級副社長 Rohit Bhargava 氏が San-Fran で開催された “Social Media Optimization Conference” で行った講演が話題になりました(参考記事:All Facebook)。Bhargava 氏はそこで “Likeonomics” という用語を提示しています(プレゼンテーション資料, Slideshare)。

プレゼンテーションでは、”Likeonomics” が以下のように説明されています。

“Likeonomics” とは、最も魅力的な人物やアイデア、組織が信頼されたり、モノがそこから買われ、そしてインスパイアを人々に与えるような存在となるような、親近感による新しい経済(the new affinity economy)を説明するキーワードだ。

新たな世界通貨は紙でできたものではない。それは関係性でできている。

オンラインにおけるソーシャルネットワークがこれだけ発達しているなかで、そのネットワーク上でブランドが流通し、共有されることが企業にとって非常に重要になっているのは間違いがないと思うのですが、ではその “Likeonomics” = 「ライク経済」における基軸通貨は “Like” でありうるのかという点では、どうも疑問が残ってしまいます。

Facebook の “Like” ボタンなどが標準化したいま、ソーシャルネットワーク上に情報共有をすることが容易になりました。その一方で、情報共有が容易になったことは、共有される情報の平均的な質的レベルが下がっていることもあるのではないかと感じます。そしてそれは、ひいては “Like” の価値の低下につながります。

Tweet110529

先日、こんなことを Tweet したのは、さっさと消えてもよいような過去に Like した内容がずっと Facebook のWall上から表示されたままなのを見てでした。”Like” は、自分のそのときの咄嗟の好意感情をあまりに簡単に表明できる手段なので、自分が長年重宝しているブランドにも、そして、たとえば友人が焼肉に行ってビールを飲んでいる写真にも、同様に”Like” します。こういう状況で、結局のところ “Like” はインフレーションを起こしているんじゃないかと思います。”Like” はときに一過的なアクションです。しかし、「ライク経済」下で得るべきは、いわば「長期的なLike」=ロング・エンゲージメントであることを意識する必要があります。


[Summary]
In mid-May, Rohit Bhargava, SVP of Ogilvy, introduced a new term “Likeonomics” in his presentation at Social Media Optimization Conference held in San Francisco. According to him, Likeonomics “explains the new affinity economy where the most likeable people, ideas and organizations are the ones we believe in, buy from and get inspired by” and “The new currency powering this global economy isn’t made of paper, its made of relationships”. I agree that it is and become more and more important for brands to be distributed and shared on social networks though, I still have doubts about “Like” as a key currency in “Likeonomics”, because I think “Like” has worries of inflation by its easiness to impress.

Written by shungoarai

6月 6th, 2011 at 2:00 am

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「0→1の社交的スキル」と「1→10の社交的スキル」

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少し前に、いくつか似たサービスに関するニュースを立て続けに見かけて、気にかかっていたので簡単に整理をしておきたいと思います。

いずれも食事会をアレンジするという点で同様の目的を持ったサービスで、他にもスマートフォンが普及してきたことで、さらに位置情報も絡めた設計になっているサービスも出てきているようです。こうしたサービスが最近になって続々とリリースされているのは、デバイス(スマートフォン)の普及や、プラットフォームとして利用しやすいSNS(TwitterやFacebook)の普及によって実現が容易になったからと言えるでしょう。

これらのコンセプトは理解できるのですが、多くの人がこれを利用するというイメージを持てないことが気にかかっていました。知っている友人との食事の日程をアレンジする「調整さん」程度の使い方ならするかも知れませんが、そうした用途にはもうツールがあるわけで、新たな人とのつながりを生むようなものでないとサービスとしてあまり意味がありません。でも、新たな人とのつながりを生む「人と人とを結びつけるハブ」がたとえば位置情報だったとしても、リアルにおいてすら、隣近所だからといって同じマンションの住人と交流があるかといえばそういうことはほとんどないことを考えたりすると、オンラインにおいても同様にそこで交流は生まれるのか疑問、というのが最初の直感です。

もう一歩進めて考えるとき、「ソーシャルサービス」の捉え方の違いがヒントになるかも知れません。

アメリカで使われるソーシャルメディアという言葉と、日本で使われるその意味合いにもズレがあります。メディアには、知らない人と結びつく「ブリッジング」と、既存の関係を強化していく「ボンディング」という二つの機能があるといわれますが、日本におけるソーシャルメディアはボンディングのツールとしての意味合いが強く、親密な相手とのコミュニケーションに使われていることが多い。
一方アメリカでは、新しい関係を作りだすためのメディアとして使われるケースが多い。本人の仕事や、人種、宗教などのプロフィールを開示しますので、パブリックなものになっている。移民社会のアメリカであれば、普段から人種や宗教が違うということを前提にコミュニケーションをしなくてはいけませんから、ソーシャルなスキルを鍛える必要があります。でも日本の場合は、その意識が薄い。ツイッターなども、企業からすればパブリックな場面で発言できるツールを手に入れたことにもなるのに、友達とプライベートに話しているときのような感覚で使われている。

岡田朋之・鈴木謙介 対談「新デバイス、ソーシャルメディアの浸透と消費行動」, 『宣伝会議』 no.796 (2010/9/1), p.29.

この議論を受けると、「新たな人とのつながりを生む(ランチをする)」というのはソーシャルサービスのブリッジング(0→1)的な利用方法になりますが、主にボンディング(1→10)目的でソーシャルサービスが消費される日本においては、前述のようなサービスは馴染みにくいのではないかと考えられます。文化的なバックグラウンドに多少の違いはあるにはせよ相互理解に大きな努力を要するほどではない、つまりコミュニケーションコストがもともと低いような環境では、「0→1の社交的スキル」は要求されないため、普段からコミュニケーションを効率化するということに意識が向かいにくいのもまた当然かも知れません。

こうしたことを念頭に置くと、「食事会をアレンジする」というような目的を持ったサービスを日本で展開するのであれば、「0→1の社交的スキル」にダイレクトに依存するのではなく、「1→10の社交的スキル」をうまく配置することで「0→1」のコミュニケーションを生む仕組みを志向するのがよいのではないかと考えます。このとき、「合コン」というキーワードはヒントになるような気がしています。


[Summary]
There recently has been several services released, by which users can arrange lunch or dinner with someone whom they don’t know. I suppose that these services won’t be popular in Japan because, in this country with less diversity, social skill of Japanese likely tends to be a “bonding” one, less than a “bridging” one. If expecting those services to be widely used, “bonding” styled communication will be required to be implemented.

Written by shungoarai

5月 22nd, 2011 at 11:30 am

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